前回日本政府提唱「人工知能7原則」をご紹介しましたが、最初の項目である「人間の基本的人権を侵さない」に反するストーリーを描いた映画としては、2020年上映の「AI崩壊」があります。AIが各種個人情報をもとに個々人の命の価値を算定し、価値が低いと判断した人物を抹殺するというものです。本来、人間の価値は算出対象となるようなものではありませんが、データと判断基準さえ学習させればAIにやらせようと思えばできる話ではあります。
極度の管理社会で監視されることをモチーフとした映画は「未来世紀ブラジル」など以前から少なからずありますが、現在のように各種個人情報がデータ化され、街中どこにでもカメラがあり画像認識で人物を特定できる、行動を追跡できる状況においては、フィクション映画の世界ではなく実際に存在しうるものとなっています。私たちがそのような監視社会で窮屈な思いをしながら生活することになるのかどうかは、個人情報ならびに情報を処理するAIを活用する人間サイドの思想・信条によって決まってしまうものだと思います。
一方で、例えば環境問題などでAIに極度に解決策を追求させすぎると人間の活動が問題の根源だと判断し、本質的解決を図るには人間の存在を抹消することが必要との解決指針をAIが見出してしまう可能性を危惧する声もあります。こうなると、多くの映画が取り上げている人間に危害を与えるAIの登場につながってしまうわけですね。
また、発明家・未来学者レイ・カーツワイル氏は、2005年にシンギュラリティ(人工知能が、自ら人間よりも賢い知能を生み出すことが可能となる時点)が2045年に起きると予言・提唱し、シンギュラリティならびに汎用AIの実現性について各種論評を呼び起こしました。折しもこの6月にGoogleのAI開発エンジニアが最先端の自然言語生成AIが「独自に感情を持っている」と言明したと発表し話題となっております。
シンギュラリティ論にまで及ばずとも現実的な社会課題として、AIが人間の仕事を奪うという説があり、AI対人間といった排他的な論調で表現されているものを見かけることもあります。ここには、「変化を避ける」という人間特性ゆえの「食べず嫌い」的な面があるかと思います。実際にはAI等新しい技術の導入により新しい仕事が生み出され、経済が発展・発達するという循環になるのでしょうが、新技術、産業革命による恩恵が市井の人々のところにまで至るのに約50年を要するともいわれており、個人レベルでは変化によるマイナス面を先に感じてしまうのは仕方がないことかもしれません。実際、現在米国で行われている仕事の多くは、1970年代の公式職業分類には記載されていない仕事ですが、ここには1970年代以降のPCという当時の新技術の普及が大きく影響していますが、約50年を経ています。
筆者も企業の方とお話しさせて頂く際には、AI導入検討時のポイントとしては、人の代替という観点よりも人の弱点を補完するという観点からお話をさせて頂いております。人の弱点としては、大量の計算処理を正しく高速に行うことはできない、人により判断や処理方法が異なる、日々刻々発生している僅かな変化に気付かない、など、があります。人員減など直接的な費用対効果を求められる場合が多いですが、AIにやらせた方が効率的な領域は任せ、人間はより創造的な業務に従事し、製品、サービス、事業の付加価値を高めることで新たな収益源を増やすことが目指す方向性ではないかと考えます。
映画の話に戻りますが、SF的な要素が強いAI登場映画ですが、個人的には経済ものや法廷ものとしてAIを取り上げても面白いのではないかと思ったりします。株など運用取引などでは既にAI活用が普及していますが、会社や法廷を舞台とした取引、裁判におけるAIvsAI、その裏で苦労する技術者、振り回される担当者、経営者などの群像劇などを描いた作品が登場しないかと期待しています。
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